その日の夜―― 琢磨は沖縄に降り立っていた。鳴海グループの力を持ってすれば、いくら繁盛記の季節とは言え、航空券のチケットを押させることなど造作は無かった。「ふう……しかし、沖縄は暑いな……」琢磨はガーゼハンカチで汗を押さえながら、メッセージをチェックした。そこには翔からの指示で、用意してもらいたい品や、会社の資料。そして入院先の病院の住所や連絡先が記載されている。琢磨はそのメッセージを見ると忌々し気に舌打ちした。「チッ! 全く……俺は買い物要員で呼ばれたのか? 仮にも鳴海グループの秘書の立場にいる俺を何だと思ってるんだ?」 実は琢磨には翔に内緒にしているある秘密があったのだ。それは会長直々に自分の秘書にならないかと打診されていたのである。つまり、琢磨はそれだけ有能な秘書だと言うわけだ。「これ以上朱莉さんをないがしろにするような行いをすれば……翔。俺はお前の秘書をやめて会長側につくからな」琢磨は小さく呟くと、翔に頼まれた買い物をする為に繁華街へと足を向けた――**** 琢磨が翔に言われた全ての買い物を終え、タクシーで病院へ着くと既にエントランスで翔が待っていた。「琢磨! 折角のゴールデンウィークの休み中に突然呼びつけて悪かったな」翔が笑顔で駆け寄って来た。「ほらよ、頼まれていた買い物だよ。全く……俺が東京に残っていたから良かったものの、仮に海外へでも行っていたらどうするつもりだったんだ?」紙袋を押し付けながら琢磨が言うと、翔は少しの間考え込む素振りを見せていたが……。「う〜ん。考えてもいなかった。でも台湾当たりだったら呼び寄せていたかもしれないな」「おまえ! ふざけるなよ!」琢磨は暑さの為もあり、イライラしながら怒鳴りつけた。「す、すまん。今のはほんの冗談だ。そうしたら自分で何とかやっていたさ」「その話……本当だろうな?」苦笑する翔に、琢磨は睨みをきかせる。「あ、ああ。勿論だって」「それで、ゴールデンウィークが終われ、、お前は東京に戻るんだろう?」琢磨は腕時計を見ながら尋ねた。「……」「おい? 翔、何黙ってるんだよ?」「やはり……直ぐに東京に戻らなければ駄目だろうか?」「はあ? 今、何て言った?」「いや……2、3日は明日香の側にいてやりたいと……」翔は目を伏せた。「また明日香ちゃんに泣きつかれたのか?」
「あら、いいわよ。私は別にそれでも」「え? 明日香ちゃん……今の言葉、本気で言ってるのか?」琢磨は呆気にとられながら明日香に尋ねた。「ええそうよ。翔がゴールデンウィーク明けに東京へ戻るって話でしょう? まあ当然そうなるわよね。仕方ないことよ」琢磨と翔は呆気に取られて口をぽかんと開けて明日香を見つめた。「おい、明日香ちゃん。一体どうしたって言うんだ? 今までなら散々駄々をこねて翔を困らせて結局言いなりにさせてきたじゃ無いか?」琢磨は目の前の明日香が本物かどうか、もはや信じられない思いだった。「何よ、人聞きが悪いわね。でも言われてみれば確かに今迄の私はそうだったかもね。でも不思議だわ」明日香は天井を見つめる。「明日香? 何が不思議なんだ?」翔が明日香の側へ行くと優しく尋ねた。「うん……。お腹の中に子供がいるからなのかしら? もっと大人にならなくちゃって気持ちが不思議と芽生えてきたのよ。母になるってきっとこういうことを言うのかもね」明日香は眼を閉じた。「そ、それじゃ子供が生まれたら子育てはやはり自分で……?」翔が尋ねると明日香は即答した。「それは無理ね。でも3年間は朱莉さんに頼むけどその後は、私が自分の手で育てるって決めてはあるからそれでいいでしょう?」それを聞いた琢磨は苦笑した。(何だよ、それ……。そんな考えじゃ、やっぱり明日香ちゃんはまだまだ子供の考えが抜け切れてないな……)「まあ、明日香ちゃんが納得してくれたなら安心だ。これで翔、連休明けは心置きなく東京に戻って仕事出来るな? それじゃ、俺はもう行くから」翔の肩にポンと手を置く琢磨。「え? 行くって何処へ行くんだ?」翔が背中を向けた琢磨に声をかけた。「おい! 俺はなあ……突然沖縄に呼ばれたから今夜の宿だって決まっていないんだよ! 今からホテルを探さなければならないんだからな!? もう行かせてくれよ!」琢磨は何処までも能天気な翔に苛立ち、声を荒げた。「キャア! 琢磨! 病室で大声を出さないでよ!」明日香が耳を押さえる。「あ……悪かったな。明日香ちゃん。それじゃあな、翔」 琢磨が病室から出ると、翔が追いかけてきて声を掛けた。「琢磨。朱莉さんは何て言ってた?」「ああ。お前の指示ならそれに従うまでだって言ってたよ」「そうか、悪いことをしてしまったな」「そう思うな
「全く急に呼び出すから結局こんな部屋しか泊まれなかった……。くそ! 後で領収書を貰って翔の奴に請求してやる」琢磨はホテルのリビングに置かれている豪華なソファにドサリと座ると部屋の中を見渡した。バーカウンターのあるリビング。そして広すぎる主寝室の部屋には豪華なダブルベッドが2台、さらにこの部屋の奥には扉があり、セミダブルのベッドが1台置かれた寝室がある。客室内には広くてきれいなバスルームが完備されている最高級のホテルである。結局散々ホテルを探して、見つかった部屋が今現在琢磨が宿泊しているホテルのスイートルームのみだったのである。しかも男一人で宿泊と言う事でホテルのスタッフからか奇妙な目で見られている……気がしてならなかった。「まあ宿泊出来たんだから別にいいか。とりあえず、シャワーでも浴びてこよう」琢磨はバスルームに入ると目を細めた。「ふ~ん。ジェットバス付か……。丁度いいな、今日は少し疲れたし」バスルームにお湯を張ると、客室に備え付けのPCを広げて画面を立ち上げた。「あの病院の住所は……ここか。とりあえず不動産屋を何件かあたってみるか……」呟きながら不動産屋の検索画面を出すと、琢磨はバスルームの様子を見に行った。お湯は丁度良い頃合で浴槽に溜まっている。「よし、風呂に入るか」部屋に戻り、着がえを取って来ると琢磨は風呂に入る為に服を脱いだ—— 入浴後、バーカウンターに置いてあったウィスキーを飲みながら琢磨は新しく住む朱莉のマンションを探していた。すると朱莉からメッセージが入ってきた。『荷造り、大体終わりました。明日は京極さんと約束をしているので沖縄行きは明後日でも大丈夫でしょうか?』「そうか……明日は京極と約束していた日だったっけ……」琢磨はその時思った。もし明日沖縄に来てくれと言ったら朱莉は京極との約束を反故にして沖縄に来てくれるのだろうかと……。そこまで考えて琢磨は首を振った。「一体俺は何を考えているんだ? 大体朱莉さんが泊まれるホテルだって見つかっていないのに」そこまで言いかけて、琢磨は自分が今いる部屋を見渡した。「そう言えばこの部屋なら主寝室と寝室があるから泊まれないこともないか」幸いこの部屋はゴールデンウィーク中は全て泊まることになっている。だが……。「馬鹿だな。そことこと出来るはずが無いだろう。それよりも明日以降で朱
翌朝―― 琢磨は朝から沖縄の不動産業者を訪れていた。応対しているのは30代位の女性である。「それでお客様のお探しの物件はこの病院の近くが良いとのことですね?」先程からこの女性は琢磨の顔をチラチラと頬を染めながら物件探しをしている。「ええ。それに交通の便が良いモノレール駅の付近を希望しています。それにセキュリティ対策もしっかりしている賃貸マンションです。出来るだけ早急に決めたいんですが……良い物件はありますか?」「そうですね……お客様お1人で住まわれるのでしょうか?」「ええ、そうですね。出来れば明日にでも住みたい位です」琢磨の言葉に女性社員は驚いた。「え……ええ? あ、明日からですか?」「無理でしょうか?」じっと琢磨に見つめられ、女性店員はますます頬を赤く染めていく。(何て素敵な男性なのかしら……ラッキーだったわ。こんな素敵なお客様の担当になれるなんて……)しかし、当の琢磨は相手の女性社員からそのように思われていることなど知る由も無い。「それでどうでしょう? 何か良い物件は見つかりましたか?」「え、ええとそうですね。何件か見つかりましたが家賃が少々お高めで……」「どんな物件なんですか?」琢磨がPCを覗こうと顔を近づけてきたので、女性社員はますます顔を赤らめた。「お、お客様……い、一体何を?」しどろもどろになりながら女性従業員が真っ赤な顔で琢磨を見つめる。「え? 何をって、物件を見せて貰おうと思ったのですが?」「そ、そうだったんですね。ええと……こちらの物件になります」女性社員が見せてきたマンションはタワーマンションで家賃は35万円となっている。(ふ~ん新築だし、コンシェルジュもいる。2LDKで広さ的にも丁度良いかもな……。しかも南向きか。電化製品も必要な家具も全部揃ってこの値段は手頃な価格かもな。地下には駐車場もついているし……)琢磨はざっとマンションの情報を目に通すと、頷いた。「ではこちらのマンションを賃貸させて下さい。私は代理人なのでここを押さえておいて下さい。明後日実際に住む女性を連れて参りますから」「え、ええ!? 女性が借りるのですか!?」女性従業員が驚いた様に琢磨を見る。「はい、そうですが?」なぜ女性店員が驚ているのか琢磨には全く訳が分からなかったが……この女性従業員の一目惚れの恋が一瞬で終わったのは
翌朝10時――朱莉は母の面会にやって来ていた。「朱莉、珍しいわね。午前中に面会に来てくれるなんて」母は朱莉を見ながら微笑んだ。「うん。午後からちょっと出掛ける用事があるから」「あら? 朱莉が出掛けるなんて珍しいわね。あ、でも最近は教習所に通っていたものね。早く免許が取れるといいわね」「うん、頑張るね」洋子は朱莉の様子がおかしいことに気付いていた。(今日の朱莉は何だか元気が無いわ。一体どうしたのかしら? 時々こちらをチラチラ見て、まるで何か話したいのかしら)「ねえ、朱莉。何か話したいことがあるんじゃないの?」「う、うん。あ、あのね……。実は暫くお母さんの所へは面会に来られなくなってしまったの……」朱莉はそれだけ告げると俯いてしまった。「え? 何かあったの? あ、別にお見舞いを催促しているつもりじゃないのよ? ただ何か重大なことでもあったのかと思って」母は朱莉を覗き込むように話しかけた。「実は明日香さんが沖縄に行ったんだけど……具合が悪くなって、今入院してるの」朱莉は必死で頭の中で言い訳を考えた。「明日香さん、暫くは絶対安静で退院後も療養が必要らしくて沖縄に滞在するんだって。そ、それで沖縄にペットを連れて行っていて……明日香さんの面倒を私が見ることになったの……」朱莉の母は黙ってその話を聞いていたが……。(嘘ね。朱莉は何か隠しているわ。ひょっとしてこの結婚に何か関係しているんじゃないの? でもこんなに辛そうにしている朱莉にこれ以上追及するなんて出来ないわ。だって私がこうして入院治療が出来るのも全部朱莉のお陰なのだから)「そう……なら仕方ないわね」「え? お母さん?」朱莉は顔を上げた。まさかあんな見え透いた嘘を信用してくれるとは思っていもいなかった。「朱莉、それで沖縄にはいつから行くの?」「突然の話なんだけど……明日からなの……」「まあ、明日からなの? それじゃこんな所に来ていないですぐに家に帰って明日の準備をしておかないと。さ、早くお帰りなさい」突然母が急くように言った。「え? お、お母さん?」朱莉は突然の事に面食らったが、母は朱莉をじっと見つめた。「朱莉……落ち着いたら全て話してくれるわよね?」「!」朱莉はその言葉に肩が跳ねた。(お母さんには私が嘘をついていることバレてるんだ……でも私の為を想って何も聞か
琢磨はホテルで朱莉の分の飛行機の航空券チケットを予約していた。ゴールデンウィークも半ばに迫ってきていた中、何とか片道分の飛行機のチケットを取ることが出来た。クレジット払いを済ませると琢磨は伸びをしながら、呟いた。「片道分か……。朱莉さんが次に東京に戻れるのはまだまだ先になるんだよな……」琢磨は朱莉の母のことを考えていた。時々は朱莉の代わりに面会に行き、様子を伺って朱莉に報告をしたいと考えていた琢磨だったが……。「多分変に思われるだろうな。本来なら翔がお見舞いに行ってあげるべきなんだから……。よし、東京へ戻ったら翔が何と言おうと、時々は朱莉さんのお母さんの面会へ行かせてやる!」琢磨はスマホを手に取ると、朱莉にメッセージを打ち込み、飛行機の便名、日付、予約番号そして「確認番号」を朱莉のスマホに転送した。バーコード転送したのでこれで朱莉はスムーズに飛行機に乗る事が出来るはずだ。メッセージの送信が住むと琢磨は立ち上がった——****「すみません。レンタカーを手配をしたいのですが」 琢磨はフロントに来ていた。明日は朱莉が沖縄へとやって来る。飛行場迄迎えに行き、出来れば琢磨が東京に戻るまでの間、朱莉を連れてついでに沖縄の観光が出来ればと考えていたからだ。「はい、大丈夫です。車種はいかがいたしますか?」男性フロントスタッフが尋ねてきた。琢磨は少しだけ考え……。「ミニバンタイプでお願いします。勿論カーナビ付きで」「お色は何に致しますか?」「色か……なら白でお願いします」「はい、承知致しました。それでは車が届きましたらご連絡させていただきます」琢磨は礼を伝えると、ホテルの中のレストランへと向かった。丁度昼時だった為にレストランはそれなりに混んでいた。琢磨は開いている丸いテーブル席を見つけ、そこに座るとメニュー表を開いた。(流石は一流ホテルだな……。ランチタイムだって言うのに結構な金額じゃないか)琢磨はお金を持ってはいたが、あまり食事にお金をかけるのは好きでは無かった。最悪、食べられればそれでいいと言う考えの持ち主であったので、会社でも殆ど1000円以下のランチばかりを食べていた。そして最近のお気に入りは日替わりで会社の前にやって来るキッチンカーのランチなのであった。琢磨は溜息をつくと、自分の中で一番無難そうなデミグラスソースのかかったオムライ
琢磨は部屋でホテルからレンタカー手配の連絡が来るのを待ちながら、沖縄の観光スポットの検索をしていた。そしてふと部屋の時計を見上げて思う。(そう言えば朱莉さんは京極と何時の約束をしているのだろう……)****――15時 朱莉がドッグランへ行くと既にそこには京極が待っていた。「朱莉さん! 来てくれたんですね? てっきり来てくれないのかとばかとり思っていました」京極は少し照れたような顔で朱莉を見つめる。「こんにちは、京極さん。来ないわけ無いじゃないですか。だって約束をしていたのですから」「確かに約束はしましたが、途中で気が変わったりとか、よくある話じゃないですか」「その時は前もってお断りしますよ。それでは行きませんか?」「ええ、そうですね。行きましょう」京極は笑みを浮かべた……。**** 2人で繁華街を歩いていると京極が尋ねてきた。「朱莉さん。教習所の進み具合はどうですか?」「いえ。まだあの後はまだ教習所へは行ってません。色々忙しかったので」すると京極の顔が曇った。「え? 忙しかったんですか? それでは映画の誘い、ご迷惑だったかもしれませんね」「いえ。そんな事は無いですよ。映画を観るのは久しぶりですから」朱莉は笑顔で答えた。(だってマロンを引き取ってくれた人なんだから断る訳にはいかないし)「それなら良かったです、朱莉さんにそう言って貰えると嬉しいですよ」「は、はい」朱莉はいつ沖縄へ行く事を告げるべきかずっと考えていた。(どうしよう……。いつ京極さんに沖縄へ行く事を告げればいい? 今話せば気まずくなりそうだし、やっぱり映画の終わった後で……)そこまで考えていた時、朱莉の翔との連絡用のスマホが鳴った。(そ、そんな……どうして……!?)いつもなら翔からの連絡は朱莉に取って嬉しいことだった。だが、今はタイミングが悪すぎる。「朱莉さん。電話に出なくていいんですか?」朱莉は真っ青になって黙っている。「朱莉さん? どうしたんですか? 何だか顔色が悪いですよ?」京極が心配そうに朱莉を覗き込んできた。「あ、あの、私……す、すみません。体調が悪いので申し訳ありませんが……帰らせていただけますか?」未だスマホは鳴り響いているが、朱莉はそれに出ようとはせずに胸を押さえながら京極に言った。「そうですね。具合かなり悪そうですから
2人で一緒にカフェへ入り、窓際の一番奥の席に座った。朱莉はカフェ・オレを頼み、京極はアメリカンを頼んだ。「朱莉さん。コーヒーだけでいいんですか? 何かケーキでもつけましょうか?」京極は笑みを浮かべて朱莉にメニュー表を差し出してきたが、今の朱莉は緊張で食欲など無かった。「いえ、コーヒーだけで大丈夫です」「そうですか、分かりました」メニュー表を閉じると、京極はじっと朱莉を見つめた。朱莉は覚悟を決めて語りだした。「京極さん、すみません。私はもう試写会へは行けないです。どなたかを誘うか、お1人で行っていただけますか? 京極さんに仮免の時の練習を付き合っていただくことも出来なくなりました。本当に申し訳ございません」朱莉は頭を下げた。「理由を説明していただけますか?」「理由……ですか?」「ひょっとすると、先程の電話と朱莉さんが試写会へ行けなくなった理由、何か関係があるのではないですか?」「……」(どうしよう、本当の理由なんて言えるはずが無い。それに京極さんにはお母さんと同じ嘘が通じるとも思えないし……)「この話、言わないでおこうと思っていたのですが……僕は見てしまったんです」朱莉が沈黙していると京極が突如語り始めた。「見た……? 一体何を……」「この間、ドッグランでお会いした翔さんと明日香さんという方が2人で旅行に行く所を見たのです。沖縄に行くと言ってました」朱莉の目が見開かれた。(そ、そんな……明日香さんはたった一度しか翔先輩の名を呼んでいないのに……京極さんは覚えていたの!?)「あの2人は朱莉さんの身内なんですよね?」京極は朱莉から視線を逸らさない。(どうしよう……)いつしか朱莉の心臓はドキドキと早鐘を打っている。「あ、あの……明日香さんと翔さんは兄妹なんです。あの2人は仲が良いんですよ。だから……」(どうしよう、何とか誤魔化さなくちゃ……)「だから2人きりで沖縄旅行に行ったんですか? 貴女を置いて?」その言葉に朱莉の肩はビクリと動く。(いけない……こんなにおどおどしていてはますます疑われてしまう……何とかしなくちゃ……)「京極さん。私も元々沖縄へ行く予定だったんです。でも母の様態が急変して、それで救急車で運ばれてしまいました。その時の様子は京極さんは御覧になっていましたよね? だから私は沖縄行を取りやめたんです
プルルルル……駅に向かって歩いている時に朱莉のスマホが突然鳴り響いた。その音に驚いた朱莉の肩がピクリと跳ねる。「い、一体こんな時間に誰から?」朱莉は足を止めると慌ててスマホを取り出し、息を飲んだ。(そ、そんな京極さん? な、何故突然……)京極には明日電話を入れるとメッセージを送ってある。なのに京極から電話がかかって来るとは思ってもいなかった。(どうしよう……。このまま電話が切れるのを待つ? でもそうすると京極さんをますます心配にさせてしまう)仕方が無い。出るしか無いだろう。そう思った朱莉は通話をタップした。「はい、もしもし」『朱莉さん! ああ、良かった……やっと出てくれましたね。心配しましたよ。いつもすぐに電話に出てくれる朱莉さんが何コール鳴っても中々出てくれなかったので』受話器越しから京極の安堵の声が聞こえてくる。「申し訳ございませんでした」朱莉は素直に謝罪する。『朱莉さん貴女の顔を見ながらお話したいのですが』「すみません、今は無理です!」京極の提案に思わず朱莉は強い口調で断ってしまった。『え? 何故ですか?』京極の声は驚きと、何処か悲しみが含まれているように朱莉は聞こえた。「あ、あのすみません。きつい言い方になってしまって。じ、実は今外にいるんです」『え? 何ですって? こんな夜分にですか?』京極の声が何処か鋭くなった。そして脳裏に先ほど見た光景が蘇る。「あ、あのコンビニに来ているんです。何だかお酒が飲みたい気分になって……それで買いにマンションを出て来たんです」朱莉は必死で言いわけをする。『そうですか。だから外が騒がしいんですね。でも朱莉さん。あまり夜分女性が町中を歩くものではありませんよ? 特に朱莉さんは一目を引く容姿をしているのですから、変な男に声を掛け兼ねられない』「な、何をまたおかしなことを言うのですか? わ、私は平凡な容姿ですよ」『朱莉さんは自分がどれだけ魅力的な外見をしているのかご自分で気付かれていないのですね。もう一度鏡で良くお顔を御覧になってみて下さい』京極の言葉に、朱莉は違和感を抱いた。(え……? 京極さん、どうしちゃったのかな……?)今夜の京極は何だかいつもと違うように朱莉には感じた。「もしかすると酔ってらっしゃいますか?」『何故そう思うのですか?』「い、いえ。何となくそう思っ
今を遡る事2時間前――「それにしても驚きましたよ。会長。突然日本へ戻って来られたのですから」応接室に呼ばれた翔は鳴海グループの会長である鳴海猛と向かい合わせに座り、会話をしていた。ここは鳴海邸。突然一時帰国して来た鳴海猛が翔を邸宅に呼びつけたのだ。「何故だ? いきなり日本に帰国すると何かお前に不都合でもあるのか?」相変わらず威厳たっぷりに猛は翔に尋ねる。「いえ、別にそういう訳ではありませんが」翔は内心の焦りを隠しながら冷静に返事をする。「まあ帰国と言っても一時的だ。中国支社にいたから、日本に久々に立ち寄っただけだ。2日後にはカルフォルニアへ行かなければならない」「カルフォルニアですか。これはまた随分遠くへ行かれますね」「ああ。最近あの地域は他の日本企業も多く進出しているからな。負けられない。実は現地で1500人の雇用を考えているのだ。どうだ、翔? お前カルフォルニアへ行く気はあるか?」「え? そ、それは……」(そんな、今の状況で日本を離れるなんて無理だ!)「ハハハ……冗談だ。責任者は現地で調達するからお前は気にすることは無い。だがいずれはお前にも海外支社を任すことになるかもしれんな。この通り、私はまだまだ身体は元気だ。当分現役で働けそうだからな。まあ、もっともお前がこの先、より一層成長すれば引退を考えてもいいだろう。可愛い曾孫も産まれることだし」猛は何処か目の奥を光らせ、翔を見た。「そうですね。順調にいけば5か月後には曾孫を抱かせてあげることが出来ますよ」動揺を隠しながら翔は笑顔になる。「それで朱莉さんは沖縄にいるそうだが、何故だ?」突然の核心を突いてくる猛の言葉に翔の全身に一気に緊張が走る。するとその時、まるでタイミングを見計らったかのようにドアをノックする音が聞こえた。――コンコン「誰だね?」猛がドア越しに声を掛けると、外から女性の声が答えた。『姫宮でございます』「ああ、君か。入れ」会長が促すとドアが開かれ、翔の新しい秘書である姫宮静香が現れた。長い黒髪に美しい容姿の女性だ。「お久しぶりでございます、会長」「ああ、そうだな。どうだ? 姫宮。翔の新しい秘書になって。何か意見はあるか?」「はい、まだお若いながら中々のやり手のお方だと感じました。私もこの方の下で色々学ぶことが出来そうです」姫宮は深々と頭を下
22時半―― 明日香はベッドの上で眠れぬ夜を過ごしていた。こんなに不安な夜を過ごすのはあの時以来だ。こうして1人きりでいるとあの日の夜を思い出してしまう。母が、まだ幼い子供だった明日香を捨てて新しく出来た恋人の元へ去って行ったあの日の夜が――あの時から明日香は鳴海家で居心地の悪い立場の人間となってしまった。元々明日香は父親が誰かも分からない子供で、連れ子として鳴海家へやってきたのだ。それでも母がいる分にはまだ鳴海家での居場所はあった。しかし、母親が自分を捨てて出て行ってしまってから明日香はますます立場が悪くなり、邪魔な存在扱いをされ……特に翔の祖父からは徹底的に嫌われた。子供の頃は意味が分からなかったが、祖父からはお前は娼婦の娘だと良く言われて来た。鳴海家の使用人達からは馬鹿にされ、陰でいじめられていた。義理の父親は優しかったが、祖父に疎まれて海外勤務へ追いやられて屋敷からはいなくなってしまった。そんな居心地の悪い屋敷の中で唯一の救いが血の繋がらない数カ月だけ年上の兄の翔だったのだ。毎日泣いて暮らす明日香を見兼ねた翔は明日香の母親をこの屋敷に呼び戻そうとする為に、ある行動を起こした。それこそ、子供ながらの浅はかな行動を……。そしてあの事故が起こり、翔は明日香から離れなくなったのだ。「翔……。ひょっとして私に対する罪悪感から私と一緒になろうと思ったの? 本当は私のことは好きじゃなかったの……?」明日香の目に涙が浮かんできた。その時、明日香のスマホが着信を知らせた。その相手は朱莉からだった。「朱莉さん……」明日香は朱莉からのメッセージを読んだ。『こんばんは。明日香さん。夜分にすみません。実は東京に戻ってから、一度部屋に戻ったのですが、考えてみればこちらには翔さんが住んでいます。鉢合わせをする危険性があると思うので、ここを出て今から上野にあるウィークリーマンションへ滞在することにします。上野でしたら明日香さんが紹介して下さった安西さんの興信所もありますし、日比谷線で乗り換え無しで六本木に出ることも出来ますから。後、私の方でも翔さんと新しい秘書の方が気になるので、少し調べてみようかと思います。それではまた明日ご連絡いたします』「朱莉さん……こんな夜に上野へ行くなんて大丈夫かしら。私が行ければ良かったのに……。ごめんなさい、朱莉さん……」(翔…
朱莉はスマホを震える手で握り締めた。いつもの朱莉なら翔からのメッセージに心を躍らせていたのだが、今日だけは違う。(怖い……このメッセージには一体何て書かれているの? 翔先輩……貴方は今何を考えているのですか?)朱莉は深呼吸をすると、翔からのメッセージをタップした。『こんばんは、朱莉さん。近々出張で鹿児島支社に行くことになったんだ。その時に沖縄にも寄らせて貰うよ。朱莉さんにも新しい秘書を紹介したいし。日程が決まったらまた連絡するね。そう言えば車は買えたのかな? 沖縄に行ったら朱莉さんの車を見せてくれるかい? 楽しみにしているよ。それじゃまた明日。お休み』「……」朱莉はじっと翔から届いたメッセージに目を通し、……何度も読み返し、終いには目を擦ってみた。今夜の翔からのメッセージには違和感がある。(え? ど、どうして今夜のメッセージに限って明日香さんのことが何一つ書かれていないの? いつもなら必ず明日香さんのことが書かれているのに?)単なる偶然なのだろうか?今の朱莉は本日、明日香から見せられた写真とメッセージで疑心暗鬼になってしまっていた。だけど、ずっと明日香と翔のことを誰よりも近くで見てきたのは自分だと思っている。朱莉にとっては悲しいことだけども明日香と翔の間には決して揺らぐことのない強い愛情で結ばれていると感じていた。それこそ、朱莉の入り込む隙等無いほどに。 こんな内容のメッセージを明日香に見せられるはずが無い。自分のことが何一つか書かれておらず、代わりに新しい秘書のことが書かれているのを目にすればあのプライドの高い明日香のことだ。どれだけ深く傷ついてしまうだろう。朱莉は明日香に今迄散々辛い目に遭わされて来たけれども、妊娠してからは徐々に明日香は変わってきていた。だから、朱莉も色々思う所があっても明日香の態度が軟化してきたので歩み寄れたら……と考えていたのだ。なので、余計に今の話を明日香に知らせるわけにはいかない。「そう、たまたま今夜のメッセージは明日香さんのことが書かれていなかっただけ……」朱莉は無理に自分に言い聞かせた。それに今は明日香のことばかりを心配している訳にはいかない事情が発生してしまった。翔からのメッセージには近々沖縄に行くと書かれていたけれどもそれはいつなのだろう?もし数日以内だとしたら、朱莉は東京にいつまでも残ってい
――17時半 朱莉は那覇空港のお土産屋さんに来ていた。「お母さんと京極さんに何か沖縄のお土産でも買って帰ろうかな……」沖縄名物のちんすこうを手に取った時、朱莉はハッとした。「そうだ。明日香さんが無事出産が終わるまではお母さんや京極さんの前に姿を見せる事は出来ないんだっけ。何かボロが出たらいけないし」手に取ったお土産を元の位置に戻すと朱莉は溜息をついた。折角一カ月半ぶりに東京に帰るのに、母に会うことが出来ないのは何ともやるせないものだった。そしてふと思った。(もし……九条さんがまだ翔先輩の秘書をやっていたなら、九条さんの分だけでもお土産を買って会うことが出来たのに……)そこまで考えて朱莉は首を振った。(馬鹿ね。私ったら。九条さんはもう翔先輩の秘書じゃない。ようやく九条さんは煩わしいことから手が離れたんだろうから、もう九条さんのことは忘れないと)その時、館内放送が流れて朱莉の乗る飛行機のアナウンスが入った。「行かなくちゃ」朱莉は搭乗ゲートへ向かって歩き出した―― 20時半―朱莉は羽田空港で、荷物が届くのを待ちながら先程まで自分が乗っていた飛行機のことを思い出していた。(それにしても驚いたな。まさかビジネスクラスあんなにゆったりした座席だったなんて。明日香さんに感謝しなくちゃ)やがて荷物が回ってくると、朱莉は荷物を取って女子トイレへと向かった。 次に出てきた時には朱莉の姿は妊婦のような恰好へと変わっていた。実は女子トイレに入り、お腹にタオルを入れてスカーフで巻いて来たのである。念の為に朱莉は空港で妊婦の格好をしようと決めていたのだ。タクシー乗り場でタクシーを待ちながら朱莉は思案していた。(そう言えば沖縄へ行く時は京極さんが車を出してくれて、ここまで乗せてくれたんだっけ。色々お世話になったから、一時的に東京に戻って来たことを本当は伝えたいけど……)しかし、それは今の朱莉の立場では叶わない事だった――**** 朱莉が億ションに帰って来たのは22時近くになっていた。「それにしても、今日は雨が降っていなくて本当に良かった。おかげで家の換気が出来るわ」朱莉は窓を開けると、30分程換気をして窓を閉めた。シャワーを浴びて部屋にもどってくると、スマホに3件の着信が入っている。1件目は明日香からで、無事に朱莉が東京へ戻れて安心したこと
「お願いよ、朱莉さん。このままじゃ私不安で……」明日香が涙ながらに朱莉に縋りついてきた。「明日香さん……」あの気の強い明日香が自分に泣いて縋っている。朱莉はそんな明日香を放っておくことは出来なかった。本当は自分で東京まで行って確認してきたいだろうに……。明日香はこれから子供の出産を控えている。妊婦の明日香を不安な気持ちにさせておくわけにはいかない。だから朱莉は頷いた。「分かりました。明日香さん。もし、今日の飛行機の便が取れたならすぐに東京へ向かいます」「本当? それじゃ私が今飛行機を調べるから悪いけど朱莉さんは自宅へ帰って東京へ発つ準備をしておいて貰える? 後は……」明日香はベッドサイドにある棚から名刺入れを取り出すと、しばらくページをめくっていたが何かを見つけたのか1枚引き抜くと朱莉に手渡してきた。「朱莉さん、東京へ着いたらここを尋ねて貰える?」「安西弘樹……興信所?」朱莉は名刺に書かれている文字を読んだ。「その人はね、私の大学時代の恩師なのよ。5年前に大学を辞めて今は興信所の所長を務めているの。私から連絡を入れておくから、朱莉さん、どうかこの人を訪ねて。翔と秘書の事を調べて。お願い」明日香が頭を下げてきたので朱莉は驚いた。「そんな顔を上げて下さい、明日香さん。確かに私1人ではどうしようも出来ないと思います。分かりました。東京に着いたらこの方を訪ねます。だから明日香さんは、お腹の赤ちゃんにさわらないように安静にしていて下さい」朱莉は明日香を元気づけるのだった。 病院を出て朱莉はタクシーを拾うと自宅へ戻った。そしてサークルにいるネイビーを抱き上げた。「ごめんね。ネイビー。私、東京へ行かなくてはならなくなったの。だからペットホテルで待っていてね?」朱莉はネイビーに頬ずりすると、以前利用させてもらったペットホテルに電話を掛けた――「すみません。それでは1週間ほど、お願いします」朱莉はペットホテルの従業員男性に丁寧に頭を下げ、スマホをチェックしてみると明日香からメッセージが届いていた。『朱莉さん、飛行機の手配をしたわ。一応余裕を持たせて18時の便のビジネスクラスを予約したわ。今迄色々酷いことをしてごめんなさい。特にモルディブの件では悪いことをしてしまったと反省してるわ。今は貴女だけが頼りなの。どうかお願いします』「! 明日香さん
そこには仲睦まじげに歩く翔と見知らぬ女性が映っていた。その女性はロングヘアの美しい女性で品の良いカジュアルスーツを着こなし、翔に笑顔を向けて歩いている。それらの写真が様々な角度で何枚も撮影された姿がPC画面に映し出されていたのだ。朱莉は驚いて明日香を見ると、唇を噛み締めて青白い顔をして食い入るように画面を見つめていた。「あ、あの明日香さん……。これは……?」「2日前に突然私のPC用のアドレスにメールが届いたのよ。宛先人は不明だったんだけど……添付ファイルが付いていたわ」明日香は一言一言区切るように話をする。「いつもならそんなの迷惑メールだと思ってチェックをする事も無いんだけど、でもこのファイルの題名が『鳴海翔に関する重要事項』と題名が付いていてつい、開いて見てしまったの。そしたらこんな画像が……」最期の方は震え声だった。明日香の話はまだ続く。「このメールには文章が添えられていたのよ。見る?」「え……? 私が見ても構わないんですか?」「うん……いいわ。と言うか朱莉さんにも読んで貰いたくて……」「分かりました。それでは拝見させていただきます」朱莉は明日香宛に届いたメールを読んだ。『こちらに写っている女性は鳴海翔の新しい女性秘書である<姫宮静香>という女性です。秘書と副社長という立場でありながら、必要以上に2人の距離が近いような気がしたので写真を撮り、ファイルで送らせて頂きました。噂によると鳴海翔の前秘書である<九条琢磨>がクビにされたのは、この女性が進言したとも言われています。以上、報告させていただきます』朱莉はメールを読み終えると明日香を見た。「明日香さん……このメールの相手に何か心当たりはありますか?」「無いわ……あるはず無いじゃない! 私はずっとこの病院のベッドから動けないんだから!」「あ、明日香さん……」(そうだ……。明日香さんは絶対安静の身。それに翔先輩だって東京に行ってからまだ沖縄には来ていないのだから明日香さんに心当たりがあるはずない)「翔……。まさか……この新しい秘書のことを好きに……?」明日香の目には涙が浮かんでいる。「明日香さん……」勿論、朱莉もショックを受けている。朱莉だって翔のことが好きなのだ。だが、今は目の前にいる明日香のことが心配でたまらない。まだ安静が必要とされる状況でこんな写真をメールで送っ
「お客様、それではこちらのお車でよろしいでしょうか?」若い女性社員が朱莉の側に寄ると声をかけてきた。「はい、こちらでお願いします。とても素敵なデザインで、運転席の窓も大きくて見やすいので気に入りました」朱莉は笑顔で答える。朱莉は軽自動車を専門に販売している車の代理店に来ていた。ここは新車から、新古車……いわゆる展示用の車両でほぼ新車に近い車両を扱う店であった。いきなり初心者で新車を買って乗るのは図々しいような気がして、朱莉は敢えて新古車を選んだのだ。しかもたまたま気にいったデザインであったし、カーナビやドライブレコーダーなどは勿論の事、内装も朱莉好みにカスタマイズされていたからである。「それでは手続きを致しますので、店内へお入りください」女性社員に案内されて朱莉は中へと入って行った。それから約1時間後――朱莉は店を出た。事前に車購入時はどのような書類が必要か調べ、必要な物は全て揃えて来たので手続きをスムーズに行う事が出来た。「マンションの地下駐車場の契約も済んでるし……納車までは1週間か。フフフ……楽しみだな」朱莉は笑みを浮かべ、腕時計を見た。時刻は11時少し前を差している。(今からタクシーで明日香さんの病院へ行けばお昼前にはマンションに戻れるかな?)そして朱莉はタクシー乗り場へ向かった―― タクシーに乗る事15分。朱莉は病院へと到着した。翔と新しく契約した書類の書面通り、朱莉は週に2度明日香の元へ洗濯物の交換の為に病院へ足を運んでいた。明日香との会話は殆ど無く、挨拶をする程度だったのが……何故か今日は違った。――コンコン病室のドアをノックしながら朱莉は声をかける。「明日香さん、朱莉です。いらっしゃいますか?」すると中から返事があった。「いるわよ、どうぞ」「失礼します」朱莉は言いながらドアを開ける。「こんにちは、明日香さん。お腹の具合はどうですか?」「そうね……大分調子が良くなってきたわ。」明日香は真剣な眼差しでPC画面を見つめている。おまけに何故か顔色が悪い。(どうしたんだろう? 随分熱心に画面を見ているようだけど……?)「明日香さん、クリーニング済みの着替えを持ってきたので、入れておきますね」朱莉は明日香の衣装ケースにしまいながら声をかける。「ありがとう、朱莉さん。……いつも悪いわね」すると背後か
『朱莉さん、突然黙り込んでどうしましたか?』京極に声をかけられ、朱莉は我に返った。「あ……も、申し訳ありません。大丈夫ですから」『すみません。僕のせいですね。沖縄暮らしの期間について尋ねてしまったから』京極が目を伏せたので、朱莉は慌ててた。「いえ、決してそういうわけではありませんから」『あの、朱莉さん、実は……』その時、画面越しに映る京極からスマホの着信音が聞こえてきた。『すみません、朱莉さん。少し待っていただけますか?』「京極さん?」『……社の者からだ。こんな時間に電話なんて……』それを聞いた朱莉は言った。「京極さん、何か急ぎの用時かもしれません。もう電話切りますので、どうか電話に出てください」『すみません朱莉さん。ではまた明日、お休みなさい』「はい、お休みなさい」そして朱莉はPCの電話を切ると、ため息をついた。「京極さん……こんな時間までまだお仕事なんて大変だな……」朱莉は再びPC画面に目を向け、検索画面を表示した「どんな車にしようかな……」朱莉が見ているのは沖縄にある車販売の代理店のサイトである。明日朱莉は早速車を購入するつもりで、事前に車をチェックしようとしていたのだ。その時、朱莉の目に1台の車が目に止まった。それは白いミニバンの車だった。朱莉の耳に琢磨の言葉が蘇ってくる。『この車は軽自動車だし女性向きの仕様だからいいと思うよ。車を買うときは俺に声をかけてくれれば一緒に選びに行ってあげるよ』「九条さん……元気にしているのかな……?」思わずポツリと呟く朱莉。朱莉は琢磨が東京へ帰ってからは1度しかメッセージのやり取りをしていなかったのである。自分のスマホをタップして琢磨からの最後のメッセージを開いた。『朱莉さん。実はわけがあって、当分朱莉さんとは連絡を取ることが出来なくなってしまった。本当にごめん。翔に何か理不尽なことを言われたら必ず知らせてくれよなんて言っておきながらこんなことになってしまって申し訳ない。いつかまた連絡が取れるようになる日まで、どうかその時までお元気で』 このメッセージを最後に琢磨とは一切連絡が取れなくなってしまった。メッセージを送ってもエラーで戻って来てしまうし、電話を掛けても現在使われておりませんとの内容の音声が流れるばかりである。そこで慌てた朱莉は翔に連絡を入れると意外な事実を聞